2012年12月29日土曜日

ローラント・フェリッヒの若きソウル・メイト、ハネス・シュスター その1

ハネス・シュスター Hannes Schusterと最初に遇ったのは、2009年の初春、拙著の取材でモリッツMoaricのローラント・フェリッヒをグロースヘーフラインの自宅に訪ねた時でした。

この時ローラントは、新プロジェクト“ヤギーニ Jagini”を、この若きパートナーと立ち上げた、と説明してくれ、雪の中、新プロジェクトの一部となるブラウフレンキッシュの古木の畑に車で案内してくれたのですが、何せプリンセスの関心事、というかその時のお仕事はモリッツのワインについて。しかも取材スケジュールは超タイト。ハネスとは挨拶程度で別れてしまいました。

そして2度目に言葉を交わしたのが、今年の収穫直後、再びローラントを訪ねた際に、またまた彼がハネスを電話で呼び出し、今度は彼のワインをじっくり味わう機会を得ました(ブログ10月21日参照)。

その際彼のSt Laurent Burgenlandのコスパの高さに度肝を抜かれ、テイスティングの最中に早々と日本市場への興味を打診。本当はすぐにでも彼の畑とワイナリーを訪ねたかったのですが、プリンセスの帰国やら何やらで、結局年末になってしまった、というのがここまでの経緯です。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

27日か28日であれば丸一日時間が取れる、というハネスの言葉を真に受け、たっぷり畑を見せてもらおう、と、朝9時半前にミュレンドーフ駅に到着。

降りてみれば、ここは10月にローラントを訪ねた時に待ち合わせた駅。ローラントの自宅のある、かつての銘醸畑がほぼ全て宅地に姿を変えてしまったグロースヘーフラインを抜け、ツァーガースドーフからSt  マルガレーテンに散逸する彼の主要な所有畑とリース畑を巡りつつ、車中でワイナリーの成り立ちなどについて話してもらいました。
父親は1900年代初頭からツァーガースドーフでワイナリーを営む家系で、かつアイゼンシュタットの通称HAKA(職業学校)で醸造を教える教師。母親はSt マルガレーテンの出身。
当初ハネスも父の学校に進学を考えていましたが、講師陣のほぼ全てを赤ん坊の頃から知っているような環境はいかがなものか、という理由でクロスターノイブルクKlosterneuburgへ進路変更。

このクロスターノイブルクというのはオーストリアに幾つかある醸造学校の中では最も歴史のある、いわばエリート校ですが、ハネス曰く「学校で学ぶことなんか何も役に立たないよ。もちろんある程度のベーシックは必要だけれど、そんなことは実地で学ぶ方が早いし、ワインを造る上で一番大切なことは、どういう味わいのワインがいいワインなのか、ということと、それを味わい分ける能力だけれど、学校ではそんなこと教えないから」と言うのです。

在学中からかなり独立精神旺盛というか、反骨精神に溢れるタイプだったようで、実家のワイナリーについても変えたいことばかりだったらしい…。それを父親は「まあ、卒業してからだな」と鷹揚に受け止め、実際卒業すると、――父親と同じ品種でワインを造ると「RosiとHannesのどちらがいいか」と較べられるのが嫌だから僕は父さんの作っていないシャルドネを造る――というハネスの主張を受け入れ、あまりに病害に耐性が弱く、収量も少ないため抜こうと思っていた古木のSt ラウレントを、ハネスの制止によって残すことにし…。

ところがそうこうしている、ハネスがまだ23歳だった2005年、父親は突然亡くなってしまいます。変えたい事が沢山あったはずですが、いざ突然全てを引き継ぐとなると、当惑するもの。

彼の偉かったところは、その時自分の一番やりたいことが何かを、じっくり見据えたこと。
最もやりたかったことは、品質の高い、テロワールを表現したワインを造ること、というのは明白でしたが、どうしたらそういうワインが造れるのかは、わからなかったそうです。

そこで彼は、2003年に最初のヴィンテージを味わい、その質の高さとワイン造りのポリシーに感銘を受けたローラント・フェリッヒに相談を持ちかけます。
その結果実現したのがツァーガースドーフのブラウフレンキッシュの古木の借地畑を二人で耕作し、ハネスのセラーで二人で醸造するヤギーニ・プロジェクトだった、という訳。

共同プロジェクトでローラントの哲学と技法を体得したハネスは、今度はそのエスプリを自分のワイナリーに翻案することになります。

彼の狙い目は古木のザンクト・ラウレント。

…という訳で次回はツァーガースドーフ、St マルガレーテン、ルスターベアク、オスリップ、ドネアスキアヒェン…と、3時間以上かけてプリンセスを連れまわしてくれた、畑巡りの様子をお伝えします。